スリランカ生活:未知の食べ物の世界

仕事でもプライベートでもほとんど関わったことがなかった南アジアのスリランカと言う国に、ご縁があって駐在することになり7カ月ほどたちましたが、スリランカはとても多彩な文化があり、いろいろ日々新しいものに触れられておもしろいです。

 

特に、これまで見たことがない食べ物や料理がたくさんで、しかもインドに詳しい人も「スリランカの食べ物は見たことがないものばかり」とおっしゃっていたので、さすが島国というか、独自の食文化が色鮮やかに発展しているのだと思います。

 

ただ、「見たことない」レベルがすごすぎて、一見しただけではどんな味なのかさっぱり想像がつかない、もはや甘いのか辛いのかすら想像がつかないという食べ物がたくさん。

長いこと生きていて、まだこんなに未知の世界があるのね、としみじみおもしろいです。

 

そういった訳で、今回は私が実際に食べてみた「一見しただけでは味がわからないもの」の味レポします!

今回は、おやつとか軽食の類に絞っています。

どんな味だか想像できるでしょうか?

 

1. おやつ盛り合わせ

1つ目はこれ!

 


職場でいただいたおやつなのですが、


右上は、コンダケウン(Konda Kevin )という、米粉とキトゥル(クジャクヤシの花蜜から作られる砂糖。頻出用語!)で作られた、ココナッツ味で甘くてかなりもっちりしたドーナツみたいな感じ。

 

ベビースターラーメンみたいなのはベビースターラーメンみたいな味がしたけれど、スパイスが効いていて辛くて、ムルック(Murukku)といいます。

 

左上のはコキスと言って、米粉とココナッツミルク、スパイスを混ぜた生地を金属の型につけて揚げているもので、パリパリです。

 

コキスはこんなカラフルなものも。こちらは仕事で訪問したお宅でいただきました。

 

あとこちらも職場のおやつ。



これはドドル(Dodol)で、ココナッツとキトゥルと緑豆で作られています。

でもドドルというと、もっともっちりして、ういろうみたいなテイストもやつもあるから、ドドルの中でも中身に何が入るかでいろいろ種類があるっぽいです。

いずれも激甘!無糖の紅茶とよく合います。

 

 

2. 同じヨーグルトでも…

2つ目は、水牛のヨーグルト。

これも、上で説明したキトゥルをかけて食べます。

 

カード(curd)と呼ばれ、よく素焼きの器に入れられてスーパーや路上でも売られています。ミーキリとも言うみたい。(キリ=Kiri はミルクの意味)

 

水牛?と思うけど、食べてみると意外と普通のヨーグルトに近い…けどやっぱりちょっと違いますが、説明がむずかしい。

 

キトゥルをかけるのがスタンダードみたいだけれど、前に現地の方の家にお邪魔した際にデザートでいただいた時は、砂糖をスプーン3杯くらいかけてもらったのをジャリジャリいいながらいただきました。

 

一人分の小さいサイズ。

 

3. 白いあみあみの中身は…?

3つ目は、みんな大好き、ラワリヤ(Lavariya)

ある日の朝ごはんでローカルなフードスタンド(ヘラボジュン)で食べた写真で、右上の白いのがラバリヤ

 

これ、特に見た目から味が全く想像できないレベルが高くて、甘いのかしょっぱいのかもわからずだったのですが、これはストリングホッパー(米粉を練って型から細く押し出して蒸したもの)の中に、キトゥルで甘く煮たココナッツが入っていて、食べるとモチモチしています。

 

作るところも見せていただきました。

 

手動で細長く押し出したホッパーを円状に広げて、中にココナッツのジャグリー煮を入れて丸める

蒸して、ざるの上で粗熱を取って出来上がり

 



4. 人気の茶色いジュース

次はウッドアップルジュース。

これはどこのスーパーにも売っているし、ホテルの朝食ビュッフェにも出てきたりと、スリランカではポピュラーな飲み物だけれど、またもやどんな味かは想像がつきません…

 

小さいボトルを買ってみた

スーパーでも必ず並んでいて、500mlペットボトルで150円くらい


ただこれ、飲んでみても味をうまく表現できず、「飲んだことがない味。甘い」というくらいしか表現できず…!

ウッドアップルは、木のように硬い皮の中にドロッとした果実が入っている果物で、とても身体にはいいそうです。

 

 

 

5. ヒンドゥー教のお祝い

 

最後は、サラスワティー(Saraswati)のお祝いに職場でいただいたおやつです。

 

サラスワティーって、これも初めて聞いた単語ですが、Wikipedia によると、「芸術・学問などの知を司るヒンドゥー教の女神」で、「日本では七福神の一柱、弁才天(弁財天)として親しまれて」いるですって。

 

2023年は10月20日だったそう。

職場のタミル語オフィサーの方からいただきました。

 

 

これまた、「なんだろう?」レベルが高いの来た!

1つずつ、中身の写真も紹介します。

 

お米とココナッツが混ざっていて、優しい甘さ

 

もち米?が甘くて、おはぎが好きな人が好きそうなモチモチ感。
クミンかな?スパイスの香りも。

 

これはよく道端でも売っている、ひよこ豆が辛く炒めてあるもの。ビールがほしくなるやつ。

 

 

 

ほんと、いろいろ未知でおもしろい!

 

楽しきスリランカの食の世界、まだまだ探索は続きます。

 

おわり

スリランカ生活:沸点について

 

怒りが少ない日本生活?

しばらくの海外での生活およびウガンダ駐在を終えて3年ほど日本にいた時、日常生活において「腹が立つ」みたいな気持ちが結構少なかったなと。

こういうこと言うと、

うそでしょ!いまスリランカから振り返っているから思い出が良く補正されているだけでしょ!

…と言われそうですが、負の感情が全然なかったと言いたいわけではもちろんありません。

 

仕事はそれなりに疲れたり嫌だったりすることあったし、気が重すぎて涙が出てくることもあったのだけれど、なんというかプライベートの生活をしている上で「腹が立つ」ってことは本当に少なかったということで、それは当時から自覚していました。

 

というか、政治とか世界情勢とか社会のジェンダー課題とかについては怒ることはある(というかわりと毎日のように怒りを覚えている)けど、ある意味自分の手のすぐ届く範囲とか、誰か人に対して怒ることは近頃ほとんどない(ウガンダにいた時は違ったけど)という話を職場の上司としたのを覚えています。

 

もちろん、日本にいた3年の間にそれほど困難や、ややこしいことがなかったからというのもあるだろうし、それはラッキーだったと言えばそうなのですが。

(まあその間も、コロナ、転職、引越し、結婚式等、人や社会との関わりはいろいろあったけれど)

 

 

最近の怒り事情

でもそうこうしてスリランカ生活、結論から言うと最近はいろいろなことにイライラし、結果的に私はとても怒りっぽいし、あらゆる怒りの沸点が下がってる感じです。

 

この前一週間の地方出張で散々スリランカ的ないろいろを乗り越えて、あるいは流すか我慢して帰ってきた後、

この週末はなるべく外部との関わりを断ちたい…そうでないとほんとに「急にブチギレる外国人」になっちゃう恐れがある(※)という気持ちになっていたのですが、

「でもまあ、徒歩1分のスーパーでアイス買うだけなら何も起こらないだろう」

とわざわざ心を整えてから買いに出かけました。

 

※私は前から、何かの拍子で突然ブチギレちゃったらどうしようというすごい恐れを抱いているのだけれどこれってなんなんでしょうね。実際にそれが起きたことはないけれど。

 

その前に少し前置きをすると、スリランカでは電子マネーがあまり流通していないので、カードじゃない場合は基本現金決済です。でもおつりがちゃんと用意されていないことが結構多いから、特にトゥクトゥクに乗る時用と、あと仕事で業者さんに払うときにおつりがないと本当に困るから、細かいお金を常に持っておきたい私は大きなお金(5000ルピーとか)を崩せる機会に崩しておくことを常に意識しています。そのためスーパーとかで積極的に試みているのだけれど、大手スーパーですら崩すのが難しい時が結構ある、という状況があります。

 

話を戻すと、その時アイスと何か買って970ルピー(500円弱)で、普段だったら5000ルピー出して1000ルピー札の手持ちを増やしたいところだけど、ないと言われるかもしれないしその小さなやりとり一回が増えることでまたイラが溜まることを恐れた私は、「今日はいいや」と1000ルピーを出しました。

そしたら、出した瞬間、20ルピーか50ルピーない?と言われ、まずそこにうんざり。

30ルピーって15円とかなのですが。

そのほぼ最小単位くらいのおつりもないの?スーパーなのに?というかあるでしょ?

と思ったし、なんかもう、あるけど面倒くさくて「ない」と言ったら、結果本当におつりがなかったらしく、裏から出すために待たされて、その間に「イラ」が「イライライラ」くらいになってきて、

「やばい、15円のためにこのイラを増やすのは見合わなすぎる…!」

と思ってもう諦めて帰ってきて事なきを得た(?)のですが。

 

 

書いてみて改めて、読者の皆さんもお気づきだと思いますが、少しも怒るようなことではないこと…!

自分でもやばすぎる怒りの沸点…!

あ、でも、外には出していない(はず)…!

 

ただもちろん、これは一例で、仕事のことは詳しく書けないけれど毎日のすべてが大小のこんな感じなのが積もっていて、スリランカ来てから7ヶ月、これくらい時によってはイライラしてしまう状況が仕上がってきました。

 

 

忍耐について

考えてみると、日本生活で一時的に怒りの感情が少なかったのは、その前のウガンダ等での生活を経て、ある種の忍耐力がついていたのかもという気持ちにもなってきました。

忍耐… というか、信じられないことやうまくいかないこと、理不尽なことへの許容範囲が広がっていたというか。

 

よく子育てしている人から、「子育てをして得たことは、理不尽な要求に耐える忍耐力です」という経験談を聞くけれど、ある意味私も、それと少し似たような感じで、もう自分の力ではどうにもこうにもコントロールできないことに振り回されて鍛えている忍耐力があるのでは!?という。

 

一見、子育てと仕事では使う忍耐力が違うように見えるけれど、そこが「子育てでの理不尽さに比べたら…」ということで適用可能であるなら、

私も、ウガンダ生活と日本生活は単純には比べられないながら、でもやはり「こういう場面でウガンダだったらもっと大変だっただろうから…」という感覚がやはり頭の中にあると言えるような。

 

日本もいろいろ社会的な課題があって憂いまくるけれど、生活上や行政手続きは、ウガンダ 等であるようなもう考えられないような非効率とか、やってもやっても押しても引いても動かないみたいなことがないから、大抵のことは気にならないというか、日本便利だなー、と思うことが多かったかも。

 

特に、引っ越しとか海外への転居とか、役所的な手続きをいろいろやる時、「指示がほとんど文章に書かれていて、指示通りやれば基本的に大丈夫ってすごい!」という気持ちが結構ありました。そしてもちろん、それを自分の母国語でできることね。

(でもこれ、そういう文書を読むのが得意じゃない人にはとてもストレス溜まるというのはよくわかる。)

 

そして、日本にいるのは一時的なものでまた途上国駐在になるのは予期できていたから、限られた期間の日本生活がよく見えるというのはあったかもしれません。

 

だから、日本にまたずっと住むとなったらまた違うだろうし、立場や所属が変わればまた違う困難があるだろうし、そして日本の問題はその「便利すぎる」をみんなが当たり前に追求しすぎて、労働者に過度な負荷がかかってるとかがあるのはよくわかりつつ。

 

 

シニカルにはシニカルになるだけの理由がある

どこの国に行っても、そこにしばらく住んでいる人でその国の諸々にとてもシニカルだなあ、かなり毒舌だなあ、という人がいる、というか多いけれど、自分もそうなるからそりゃそうだよなあと思ってきます。

しかも元々口が悪そうとかではない人がそうだったりする(口が悪い人は言わずもがな)から、それがおもしろくもあり、よっぽど苦労が多いんだなあと思いを馳せずにはいられないというのもあり。

自分も日本にいる時より文句と不満が明らかに多いの、悲しいけど自覚しています。

 

そしてこういうことを考えていて改めて教訓として思うのは、やはり出張とかで短期間だけどこかの国に行った時に、そこに住んでいる人に「住みやすそう」とか、どの国でも言うべきではないな、ということです。

 

これは昔私がやってしまったことがありすごく反省していることで、その時は、そこの国に住めていいですね、という憧れやポジティブな気持ちを背景にしたものだったのだけれど(仕事内容含め)、たとえそうだとしても、やっぱそこで苦労してる人には「は?」と思われたと思う。(私が言った後、一瞬間があったから気がついた)

 

出張でホテル生活で、やり取りする人も限られている中で見えることって本当に限られているものね。

実際の生活の試練というのは、家を探して、その家に住んで、家の大小トラブル(隙間風や虫や騒音や砂埃やインフラの不具合等)に日々対処して、日本みたいに便利じゃないお店でいろいろな買い物して、スーパーで食材選んでご飯作って、現地の交通機関を使って、通行人や運転手に絡まれて、の連続からしか見えてこないと思います。

しかも同じ国でも、首都か地方かでも全然事情は異なるし。

 

(ただし、これは旅行で来た友だちや家族が「この国楽しい!住みたい!」と言ってくれる場合には全然そんなこと思わないけれど。だって旅行中楽しく過ごしてくれた方がうれしいし、私が元気でやってるって思ってほしいし。)

 

あと言わずもがなだけれど、こういうイライラへの対処法は、「周りを変えるのは無理なのだから、自分の気の持ちようを変えること。期待値を調整すること」であるし、「いちいちイライラしない。その方が自分にとっても楽だよ」というのも必要なことなのだけれど、そういうことは本人が一番わかっているので、その渦中でそれぞれの苦労でなんとか日々乗り越えている人に周りがアドバイスできることってないよな、とも思います。

(現地在住10年、20年とかの人からの経験に基づいた超具体的なアドバイスはもちろん別。とってもありがたいです。ただそういう方々はレベルが高すぎて私には真似はできないかもだけれど。)

 

 

おわりに

今回はこのようにとってもネガティブな内容だったのだけれど、もちろんこの仕事がやりたくて今やれてるのはうれしくて、前述の出張でも目的自体はうまくいって達成感もあったし、日々いいことと楽しいことともあるのだけれど、そのプラスとマイナスは両立するということ。というか切っても切り離せない中で、日々仕事や生活は進んでいくのだと思います。

 

そして、こういう環境への適応もこの仕事の一部なのだし、それがやりたかったのだから、と自分を奮い立たせる…!

でも、「自分がやりたかったこと」だから弱音をはいちゃいけないってことじゃない。

 

もう無理って時はぐったりするか、スリランカの綺麗なビーチに遊びに行っておいしいもの食べて、また元気になりたいと思います。

 

あと、なんかこうしてまとめたことで、気持ちがだいぶ落ち着いた気もします。

やはり私には、文章を書くことも大事なこと。

 



おわり

LGBT理解増進?トランスアライでいるために

 

トイレやお風呂の話が一人歩きしすぎ

LGBT理解増進法の成立と前後してトランスジェンダーの話題についてたくさん話されているけれど、どう考えても、トイレやお風呂のことが一人歩きしすぎであることに疑問とフラストレーションが溜まります。

 

そういうこと言っている人って、何がどうなったら(例えばどんな法案が通ったとしたら)、日本全国で性犯罪目的の男性が「トランス女性です」と言って女性トイレに入ることがOKになる、っていう認識で言っているの?と思います。

 

実態がない恐怖の一部を切り取ってそこを被害者ヅラでことさら強調するというのは、例えば関東大震災で朝鮮人が「井戸に毒を入れた」というデマを流してヘイトを煽るのと同じだと思います。そしてその結果、最悪人が亡くなってしまう。そしてそれは実際に起きている。

 

怖い怖いだけ言っている人は、社会の一員として、何が問題の本質なのか(上澄みだけすくってそこだけに脊髄反射で反応していないか)と、実はその発言が差別を煽っていて目の前にいない誰かをことを考えてから発信してほしいと思います。

 

ただこの話をする時に葛藤があるのが、私はフェミニストとして、女性の権利が(今以上に)縮小されることがないようにしたいし、性暴力への恐怖心にはいつも寄り添いたいというのがあることです。だからその不安を口に出している人、そしてその人は性暴力被害に遭ったことがあるのかもしれないしそのトラウマに今も苦しんでいるのかもしれないと思うと、その恐怖を否定することはできない。むしろ寄り添いたい。

でも、「男性がトイレに入ってくるのは怖い」というような一部だけ切り取って結果トランスジェンダー差別に加担する発言はもう見たくないのです。

 

こういうことを言うと、「怖いものは怖い」とか「怖いことを怖いって言って何が悪いの?」って言われそうだけれど、社会の一員なのだから、それが社会の中でどういう意味を持って、どのように差別を助長するのか、その点も意識する必要が大いにあると思います。

 

つまり、このトランス当事者とトイレお風呂の問題について、当事者の方達は私が到底想像もできないような葛藤と困難を持ちながら生活していると思われ、むしろ自分の身の危険を差し迫って感じたり、人の目を気にしながら生きていかないという状況なのに、それに寄り添うどおろか、巷で言われている「女性風呂にトランス女性と名乗って男性が入ってくる!」という部分にだけ反応して、それが嫌だと言うことで本当のトランス当事者を傷つけてしまうこと。

 

そういう発言をする本人にとってはもしかすると「純粋な不安」や「素朴な疑問」として発せられたものなのかもしれないけれど、結局さまざまなトランスの人々のことを想像しない身勝手な発言であって、トランスの人々の中でもものすごく生き方や選択、抱えているものに多様性があるということが無視されていたり、トランスの人の話はすぐ性器の話に結びつけて良いと考える残酷さ、そしてそういう視線に晒されて続けている当事者の人たちがそれをどのように我慢しているのか、、、そういったことがまったく見えていないのだと思います。

私だってもちろん見えているとは到底言えないけれど、トランスに限らずあらゆる人のあらゆる事情や弱さについて、想像していきたいしそれができなければ終わりだとは思っています。

 

話を戻すと、怖い怖いと言って偏見を煽る言葉を垂れ流すのは「差別」を煽っていることに等しいし、性暴力への恐怖心があろうがなかろうが、人間としてしてはならないこと。

 

そう考えると、そもそも、差別に加担しない、ということよりも優先されるようなことってそんなにあるだろうか?という気持ちになります。

 

 

「女性の安全を守る」がトランスヘイト派の格好の材料にも

私は上記のように普通にフェミニストとしての感覚で、女性の安全や権利がこれ以上脅かされてはいけないと思うけれど、そういう考えを盾にして悪用して、トランスジェンダーへのヘイトが拡大されてきたというのが事実だと理解しています。

本当は、トイレとかお風呂で性犯罪が行われることと、トランスジェンダーの人が差別されずに生きられる社会を作ることは別の話なのに、無理やりつなげて、ヘイトに活用されてしまう。

 

今回の理解増進法案成立の前から特に、この「女性の安全が脅かされる」言説をテコにトランス差別がされる動きが加速したようだけれど、法案成立してから自民党内で「全ての女性の安心・安全と女子スポーツの公平性等を守る議員連盟」というのができて、要は自民党保守派が理解増進法案への「懸念」を示すような連盟らしく、メンバーが100人いるらしい。

 

www.sankei.com

 

杉田水脈もしっかり入ってる。(記事内に議員たちの名前あります)

こういう人たちって、、、ほんとに。

 

保守派は、「伝統的な家族観」とかあってないようなものを「守る」ことで勢力を維持したりしたい保守層(ここに統一教会とか神道連盟とかの利権がからんでくる)に寄り添うことで選挙を生き抜いてきているから、そのために人を差別することを厭わないんだな、って暗い気持ちになる。。。

ということも書き出すと終わらないので。

 

とにもかくにも、こういう議員たちとか、右派系保守派メディアとか、意識的にトランスヘイト言説を推進してきた人々は当然差別をやめてほしいといか言えないけれど、そういう人たちが垂れ流す言葉のうわずみだけみて、「え、女性トイレに男性が入ってくるの?いやだ!」という言葉を安易に広めることも、差別ですよ、と言いたいのです。

 

 

ヘイトはSNS上にとどまらず

SNSの特徴として、極端な意見が拡散されやすいというのはあり、実際の社会よりもさらに不寛容さやヘイトが目に入ってしまうというのはあるだろうかた、この件もSNSだけでここまで不安を煽られる必要はないのかもしれない。

むしろそうだといいのだけれど、ただ、今回の法案成立に先立っては、議員へのロビー活動があったり(結果法案がよりマジョリティに配慮した内容に結局なってしまったり)、渋谷マークシティのトイレにビラが貼られたり、家の郵便受けに入れられたりもあったそう。

 

www.businessinsider.jp

 

あと、女優の橋本愛さんも

「心は女性」とする男性が女性用の公衆浴場やトイレなどを利用することについて「体の性に合わせて区分する方がベターかな」

と発言したのが話題になっていたけれど(その後謝罪)、そういう影響力がある人が発言したり、そうするとそれについて「何が悪いの?」と擁護する人もいて、実際にそれは社会で起こっていることだということは認めざるを得ないとも思います。

 

www.nikkansports.com

 

 

おわりに

マジョリティの人だけにとって住みやすい社会から、もっといろんな人にとって住みやすい社会に移行する時って、そりゃあこれまで多くの恩恵を受けてきたマジョリティにとっては多少の気にすべき点やすり合わせるべき点が出てくるからちょっと手間がかかるかもしれない。これはその一つの例だと思います。

でも逆に言うと、マジョリティの人たちは、これまで逆にその苦労なく、自分に合わせてもらう社会で楽してきたでしょう?

性自認や性的指向については私もそう。

シスヘテロ女性としての特権を享受して、これまでの人生の多くの場面でトランスの人々が感じる違和感を気にせず生きてこられてしまっている。

そこの部分で大変な葛藤を抱えて苦労をして、安全や金銭面含め様々な選択において負担を強いられてきたトランスの人たちを無視して成り立ってる社会である意味楽して生きてきたんだから、これから少しくらいの手間を被ることに文句言うなんて、本当に「不寛容」の一言だと思うし私は絶対に言えない。

 

それに、これは何回も繰り返し言っちゃってることですが、あらゆる人が幸せにいられる社会、自分の能力を制限されない社会、そういう社会に移行していった方が多くの人にとって、私にとっても、、良い結果になるはずだよと思います。

 

それはもちろん、苦しむ人を無視した上で成り立つ社会なんか嫌だというのはきっと多くの人と共感できるはずだし(だと信じたいし)、あと誰だっていつ社会的弱者になるかなんて本当にわからないということ。いつ体調を崩すか、障害を持つか、働けなくなるか。自分の子どもが、生まれた時に割り当てられた性別と性自認が一致しないかもしれない。ゲイかもしれない。親である自分は受け入れると思っていても、社会にはこんなに差別があるという事実。

 

そして、もっと多くのトランスの人が自分の能力を制限されないで世の中で今以上に活躍できたら、単純に、社会にとってありがたいことがたくさんあると思います。それはこういった人権の話だけでなくて、経済活動や学問、あらゆる文明の進化において。

その属性によって差別されてる人たちがもっと活躍できれば、そりゃあ、限られた人たちだけが気持ち良い形で運営されている社会より、良くなるはず。

 

 

 

良いアライでいたいなと思いながら、全然力不足で模索ばかりだしもっと学んでもいかなくてはいけないけれど、今後も考えて、ちゃんとアライとしての自分の考えを整理して、差別には反撃できるようにしていきたいと、今回改めて強く思った末のブログでした。

 

この話に関することを、シスターフッドPODCASTでも話していますのでよろしければぜひ。

 

anchor.fm

日本のジェンダーギャップ指数(2023年)は125位

世界経済フォーラムのジェンダーギャップ指数2023年版が発表されて、日本は146カ国中125位とのことですね。

 

www.weforum.org

 

経済面(123位)と政治面(138位)が低いのはいつも通りで、まあ教育と健康は高いのだろうと思っていたら、健康も59位で思ったより高くなかった…

 

なんでかな、と思ってレポートをよく見てみるると、健康の指数を構成する点の中でもSex ratio at birth(男児選好による女児の堕胎がないか)は当然同率1位なのだけれど、Healthy life expectancy が69位で、これは “an estimate of the number of years that women and men can expect to live in good health by accounting for the years lost to violence, disease, malnutrition and other factors” とのことなので、おそらく「男女それぞれが良好な健康状態で生きられる年数で、そのカウントには暴力・病気・栄養不良その他のファクターが考慮されている」ということなので(そもそも女性の平均寿命が1.06倍長いのは一律で考慮されている)、ここが日本は女性の数値が低く出てしまうということなのだなと見えてきました。

 

この “live in good health” というのがやはり絶妙なところで、どうしてもジェンダー不平等な社会だと、暴力(DV等)や栄養不良(女性の貧困)といった問題が存在するから、日本のように高度な医療体制があってそれを享受できるということ以上に、健康の差というのは出てくるのだろうな、と思います。

(その中でどのような具体的な指標が取られているかの詳細はちょっとわからないのですが。)

 

 

ちなみにスリランカは、健康は1位!(同率1位が複数あるけれど)

そして経済面と政治面が日本同様低くて、総合は115位。

教育も85位なのでそこまで高くなく、中・高等教育を受ける割合は高いのに、初等教育と識字率が低め。元々教育受けられる女の子と、初等教育にすら入れてもらえない女の子の差が大きいということだと思います。

 

 

それにしても、日本はEast Asia and the Pacific(東南アジアも含んでいる)の地域内で最下位…

というか世界で見ても、後ろに21か国しかないという状況。

 

上述のように、何がランキングの指数を構成しているかは詳しく見てみないとわからないから、順位だけで一喜一憂するのは違うのだけれど(例えばUNDPの人間開発指数のジェンダー指数で見たら、日本は決して低くない)、でもまあ、146位中125位というはどう言い訳したとしても絶対的に低い、というのはあるので、憂いは続く…という感じだと思います。

 

政治面、経済面での、特にリーダーシップを発揮する層において、やることはまだまだ山積していそうです。

 

 

【読書】瀬尾まいこ「夜明けのすべて」

 

久々に小説読みたい気分で、瀬尾まいこさんの「夜明けのすべて」を読んだ。

 

 

 

瀬尾まいこさんの本は、前に「そして、バトンは渡された」を読んですごくよかったのを覚えていて。

いじわるなことがない、心優しい人たちの物語というのが安心して読める感じ。

 

 

 

あと、テーマにPMS月経前症候群)の話があったから興味を持ったというのもあった。

この1~2年くらい、個人的にPMSが重くなった、とうか前より質が変わってきた気がして、前は月経前というより始まってから頭とかお腹がいたかったり、すごい眠気というのがその時々によってあったりなかったり、強かったり軽かったりしたのだけれど、最近は1週間前からのイライラの気持ちが強くなってきたという感じがして、気のせいかもしれないけれどやっぱり毎月続くなあと実感しているところ。

 

調べてみると30代半ば以降から、PMSがひどくなるのはよくあることのようで、特に忙しい世代であることもあいまって、精神的な面で出てくることは多くの人の悩みの種となっている様子。私ももちろんイライラしたくはないし、イライラがさらに大きくなるのを予防したり、言動に出ないようにするためにそれなりの努力を払わなくてはいけない状況と自覚している。

 

そういうこともあって関心を持って読み始めて、やはりおもしろかったのだけれど、PMSの部分は少しひっかかってしまった。

というのは、主人公はPMSによって抑えられない怒りが爆発してしまうことで悩んでいるのだけれど、その怒りが結構、

①理不尽

かつ

②怒りをぶつけられた男性は何が何だかわからない

(女性が対象の時もあるけれど)

…という形で描かれていて。

その怒りはリアルだから小説上の描写についてはさすがだなと思いつつ、ジェンダー課題に日々あれこれ思考をめぐらせている立場からすると少しひっかかってしまうな、という。

主人公本人も自覚しているように、なんでそんなことが怒りになってしまうんだろう?という内容で、周りから見るとなんで怒ったのかわからないという内容を突然他に複数の人がいる場で発現してしまっているから、これによって「女性は突然ヒステリーになる」「女性が男性に攻撃することは許されてる(と女性を叩く人にとっての格好の材料となる」「女性の怒りは生理のせいである」というようなステレオタイプが助長されるのがちょっとつらいな…という気持ちになった。

 

自分に置き換えると、イライラが出てきた時、それが月経前だからかなと思ったとしても、これまで全くなんとも思ってなかったことが突如としてイライラするということはまずなくて、もちろんこれまで疑問を持っていたり少し不満が溜まっていることが増大するという感じだし、その怒りについて「すべてホルモンのせい」で片づけられたらつらい。

それと同時に大前提として、その怒りは外に出さないようにすごく気を付けているということ。イライラしても、それを心に秘めながら仕事は涼しい顔で、家庭内ではなるべくよく休みイライラの種を取り除くといった対処法をとっているので、女性は生理前(中)は理不尽に怒るってわけではない。

 

だから、これを読んだ男性が、そして男性だけでなくPMSが軽かったり違う形で出てくる女性が、「女性の月経前のイライラは完全にホルモンのせいである。ホルモンに左右されているだけだから流せばOK」とか思わないでほしいな、と思ってしまった。また、多くの人は外に出さずになんとか自分をコントロールしているのがほとんどだと思うので、それもなしに「女性は生理だとすぐイライラして外にぶつける」とも思わないでほしい。その背後にいろいろある。

 

同時に、私もPMSや月経が本当にひどくて私なんか比べ物にならないほど苦労している人たちのことはわからないから、その点については想像力が及んでいないところもあると思いつつだけれど。

 

前半のPMS発現についてはそのように思ったけれど、まあそのひっかかりは置いておけるくらい、本全体としては、とても良い本で読んでよかった。

自分の中のテーマの一つである、「誰がいつ社会の中で弱者になるかわからない。強い人だけの論理で社会を回してはいけない」というのをまた改めて実感できる読書だった。

「若いのにやる気がない、なんだああなのか、もうちょっとがんばれ」とはたから見れば思ってしまうような場合でも、何か事情はあるかも、そういった想像力をみんなが持てる社会になるために、たくさんの若い人にも読んでほしいなと思った。

そして、大変な重たいものを背負っている人たちの話だけれど、優しさと愛が溢れていて、意地悪さが皆無なのも読んでて心が温まる作品でした。

 

ポッドキャストはじめました!

 

元同僚であり友人のナッツと一緒に、シスターフッド Podcast を始動しました!

 

Spotify

https://open.spotify.com/show/05bdmrElXLarpZw68GWVvt?si=b4KAJ87OT-eXU8KLGp-LZQ

 

Apple

シスターフッド PODCAST

シスターフッド PODCAST

  • ナッツとヤスコ
  • Courses
  • USD 0

 

元々会えばジェンダーフェミニズムの話をよくしていた二人、仕事でそれぞれ違う国に行くことになったけれど(結果的にはインドとスリランカという近い国同士になったけれど)、今後もキャッチアップしながらこういう話題、いろいろしていこう!ということで始まりました。

 

インドやスリランカでの生活の話もしながら、シスターフッドの輪も広げていきたいと思っています。

 

感想やメッセージ、話してほしいトピックなどがあればぜひともシスターフッドPodcastのメールアドレス、sisterhood.pc@gmail.comまでお寄せください!

Twitter アカウントは @sisterhood_pc です。

 

おわり

 

【読書】治部れんげ、田中東子、浜田敬子ほか「いいね!ボタンを押す前に――ジェンダーから見るネット空間とメディア」

 

ジェンダー関連でいろいろなことがあちこちで燃えているネット空間とメディアを見ていて、なんだかなあと思う部分と、でもそのおかげで議論が進んで、変な差別発言する人はしっかり指摘されて、昔よりよくなっていることもあるなと思いながら、付き合い方を考えていたところで出版された新刊。

 

日本のジェンダー議論を引っ張っている著者たちによる「ジェンダーから見るネット空間とメディア」とのことで、こういう話は少しでも新しいうちに、と思ってすぐ入手しました。

 

 

 

まず小島慶子さんの序論の、「私たちはデジタル原始人」で、今デジタルにおいては人類史の旧石器時代を生きている(石斧を使い始めた人たちのように、デジタルを使い始めたばかりで欲望と粗暴さが渦巻く原始ネット社会を生きる)という話がおもしろかった。

 

天才が発明した石斧、それを普通の人たちが使い始めたから人類は “進化した”。

でも、人々がその最先端のハイテクアイテムで殴っていたのは、獣だけではなかったはずだ。よかったー、石斧で殴られる世界をサバイブしなくてもいい現代人で…

そんなふうに、いつか私たちは子孫に哀れまれることだろう。

 

 

その後しばらく皇室の話が続いて、個人的には皇室の話って私はあまり関心がないので「なんでみんなそんなに小室さん小室さんって…」という感じだったけれど、昔から一定の層の関心がある話題であって、ここにもメディアの姿勢や変わりゆく社会の中で変化が求められていることが、イギリスの王室の例も触れられながら説明されていて知見が深まった。

 

 

田中東子さんの「なぜSNSでは冷静に対話できないのか」の章では、

その答えをいろいろと分析していて、たとえば

一般のひとたちによって書かれたSNSの文字情報は第三者の視線による「編集」という作業を経ていない文章であり「不明瞭さや誤読を招きかねない表現がそのまま掲示されてしまう危険性に満ちている。」こと。

 

また、

浮遊する「文字情報」からは発話者の属性や発話者間の関係性が消し去られているため、あらゆる発言は、その内容がどのようなものであれ、均等で対等なものであるあのように受け止められる。そのうえで、発言内容の「強度/強さ」を図るための指標は、「いいね」や「リツイート」や「コメント数」といった数の力に委ねられることになる

という点も、問題の根底にあるものをとても明確に指摘していると思った。

 

議論の前提となる定義とかも共有できていないままに、不特定多数の顔の見えない人と議論するということ、本当にリスクがたくさんあるプラットフォームだと理解できる。

(なので個人的には、Twitter上でちゃんとした議論するのはまず無理とすでに諦めてしまっているけれど…)

 

社会で起きるいろいろな物事や思想について対話したり議論したりするのって本来楽しいことで、そのネタがたくさんあるTwitterっておもしろいツールなはずなのに、毎日すごい不毛な議論がたくさん起きていたりそれでいろいろな人を傷つけているのは残念に思う。

別に不毛な議論があっても、それが対面で知っている人との間だったりしたらその関係性の深化という意味もあるだろうけれど、ただ単にこれまでも知らないしこれからも知り合うことはない人と、限られた文字数で、前提を共有もせずに議論するっていうのはあまり意味がないよな…

 

でもそういうところで議論しなくてはいられない人はいるし、議論というところまでいかなくても頭の体操は重要だし、それこそいろいろな意見が多方面から述べられているのを見て学ぶって機会もたくさんある。そういう使い方をしていきたいけれど、極端な対立が煽られたり、誰かが不条理な誹謗中傷に晒されたりするのは本当に胸が痛いことです。

 

 

そしてそれに続く、また小島慶子さんと、山口真一さんの対談ネット世論は世論ではない」は、学校で必修にしてほしい内容だし、大人も1年に1回は読んで自分を戒めるとよいと思った。

「おおかたの意見」を知るためにネットを見ても、実は「極端な人」しか見えないということ、私たちは肝に銘じておかないといけない。

 

例えば憲法改正というテーマについて分析すると顕著に表れます。「改正について大いに賛成である」から「改正には絶対に反対である」までの七段階で社会の意見分布を調査すると、山型の分布で中庸的な意見の人が最も多い。ところが、これをSNSの投稿回数で分析すると、最も多く発信されているのが「大いに賛成である」人の意見です。そして次に多く発信されているのが、「絶対に反対である」人の意見。この人たちはそれぞれ社会全体の7%を占めているのにすぎないのですが、SNS上の発信量では合計46%

 

ジェンダーとかフェミニズムの話でも、よく両極端なことを挙げて「何やっても女は文句言う」みたいな投稿をする人がいるけれど、世の中そんなに極端じゃないし、そういう分断を煽ることの罪は大きいと思う。それを目にした関係ない人が怒ったり。

ただそういうことを材料に議論することは楽しいし意義深いけれど、逆にヘイトやミソジニーを促進するネガティブな影響の方が大きいというのも大いにあるよなあ。

 

あともう一点「そうだよなああああ」と思ったのは、ある誹謗中傷の裁判で訴えられた被告が、Twitter上に一人で200以上のアカウントを作って攻撃していたことがわかったとか。

アカウント200は珍しくても、一人の人が100回くらい同じような誹謗中傷をすることは全然あるとのこと。

 

なんか、映画「新聞記者」にもあったけれど、誰かにお金を払われて、世論を操作するようなことがさも大勢の意見のように投稿しまくる、というようなことも実際に社会に起きているのだろうし。ため息が出る。

 

同時に、その200個アカウント作った人とかのことを考えると、どうしてそんなに負のエネルギーが湧き出てしまうのか、孤独で幸福や愛が足りなくてほんとうに苦しい暗い生活を送っているからそうなんだろうな、そこをむしろどうにかする方法はないのか…

という気持ちになってくる。

 

でもとにかく私たちが忘れてはいけないのは、

「そういうように他者を攻撃している人が、社会全体からみればごく一部に過ぎないという事実」

「ネットの意見は決して世論ではない」

 

 

「なぜジェンダーでは間違いが起きやすいのか」の章で、

NHK山本恵子さんが「メディアに女性が数として増えるだけでなく、管理職となる必要性も味わってきた」と書かれていて、意思決定層が多様になることの必要性をものすごく表していて深く納得できる例だった。

ずっと男性デスクからダメ出しをくらって最後にはデスクが「わかりやすい」と思うステレオタイプ的な描き方やコメントになっていたことが、やっぱりそこ(=意思決定層)に女性が入ることでようやく変わったという例。

 

また、男性デスクでも家事や子育てを経験している人がなった時に、

「親が目を離したすきに」という表現について「親だって、ずっと子どもから目を離さないのは不可能だよね。責任を感じている親をさらに追い詰めるだけだ」と、これまで当たり前に使われてきた表現を削除していた。

 

なんともすばらしい多様性の実例。

 

 

 

日々目に触れるものが価値観をつくるから、SNS世界のモラルはもっと高まらなくてはいけないし、メディアの役割は今も昔も大きい。

だからいろいろ間違った方向に行くと、差別や偏見が助長されたり、人を殺してしまったりする。

もうこういう社会であることは止まらないから、その中でいかに自分がリテラシーを身に着けるか。そして制度としても、今まで想定されていなかった事態に対するルールや仕組みをしっかり作って対応していけるか。

それが原始時代を抜け出してより進歩した社会になるために重要なことだと改めて実感。

 

今の時代を生きる上で大事なことがたくさん書かれていた本でした。

 

 

【読書】田房永子 「男の子の育て方」を真剣に考えたら夫とのセックスが週3回になりました

 

この本はタイトルがなんかキャッチーでお茶の間な感じ(?)だけれど、

本の内容は個人的には、

 

固定的なジェンダー役割と偏見と、性暴力、そして夫や家族との(変わりゆく)関係性…等々

 

に関する深い内省と分析だと思いました。

 

 

田房さんはお子さんが2人で、上が女の子、そして新しく下に男の子が産まれたことをきっかけに、自分の中の男性嫌悪について気づいていくというお話があって、それにはこれまでの男性との関わりで染みついた意識がいろいろとあって、なるほどなーと。

 

同時に、女性嫌悪ミソジニー)もしっかり存在していて、それはいつか上野千鶴子さんも言ってたけど、いくら女性でフェミニストだったとしても、ミソジニーだらけの世の中で生まれ育っていたらミソジニーから自由になるのは無理なのだと感じさせられる。

 

 

でもいろいろあって、最後、「男心」や「男のかわいさ」を意識していくというのも、なんだかあもしろいのだけれど、でもそれは若い女性たちがモテのためにやるようなものではなく、自身の男性観の均衡を調整するために、言わば社会的実験のようにやっているのだし、その後の結果も興味深かったです。

 

 

 

 

 

田房永子さんの本は、これまでに別のもいろいろと読んできて、漫画の場合でも、ただ徒然なエッセイが断片的に連なって描かれているのではなくて、ちゃんと一冊の中の第一話から最終話に向けて考えや分析がなされて深まって結論に辿り着く作品となっているのが印象的。

 

だから、一人の物事をすごく深く考える人が、毎日いろいろ考えた思考の経過を一緒に辿らせてもらえるという感じでおもしろい。

 

(しかも自分にも関係の深い生活の話だからとても考えさせられる。)

 

田房さんの行動や考えを生々しく描いていてくれるから、考え方が違うところとか、なんでそうしちゃったの?って思うところも含めて(悩んだ時に変な占い師に聞きに行くとことか)、いろいろ思いを馳せながら読めます。

 

 

 

こちらもそういう感じでいろいろと考えさせられたのでおすすめです!

 

 

2022年に読んだ本 おすすめ10選!

 

上野千鶴子・鈴木涼美「限界から始まるー往復書簡」

山崎ナオコーラ「ブスの自信の持ち方」

岩井建樹「この顔と生きるということ」

松田青子「自分で名付ける」

朝井リョウ「正欲」

マット・ヘイグ「ミッドナイトライブラリー」

シンジア・アルッザ他 「99%のためのフェミニズム宣言」

田房永子「男の子の育て方を真剣に考えたら夫とのセックスが週3回になりました」

斉藤章佳「しくじらない飲み方」

清田隆之「自慢話でも武勇伝でもない『一般男性』の話から見えた生きづらさと男らしさのこと」

 

 

いろいろな理由で、いわゆる「社会のレール」から外れてしまったり、それでなくても生きづらかったりということについてもっと知って考えたいというテーマがたぶん自分の中にずっとあり、その関連の読書が「この顔と生きるということ」とか「しくじらない飲み方」かも。

 

 

「この顔と生きるということ」は、特徴的な見た目の持っている人々のそれぞれのエピソードについて。

一章ごとの話では語りつくせないような苦労がたくさんあるのだろうけれど、丁寧に取材されたうえで読みやすくまとめていただいている話にそれぞれ考えさせられました。

 

 

「しくじらない飲み方」は、同じ著者の「男が痴漢になる理由」を読んでおもしろかったからその流れで読んだもの。

痴漢というのは完全なる性暴力で犯罪であると同時に、加害者側から見ると「依存症」であり治療が必要であるということがわかり、依存症全般に関心が湧いたし、社会の様々な問題が依存症に起因していること、大いにあるのだなと感じた。

ひどいことした当事者に治療?そのためにさらにお金をかけて?とも思うけれど、治療で緩和される苦しみは治療された方がいいし、本人の治療が、周りの人たちの苦しみを軽減する意味でも重要とわかった。

あらゆる問題の背後にはアルコールがあるというのも、そういう視点で物事を見てみるとたしかに。

お酒を楽しむことや、男の人はお酒強い方がいいという風潮、そして嫌なことをお酒で忘れる・・・そういったことからアルコール依存症の道に足を踏み入れてしまうのは、実はすごい紙一重なのではとも思った。

 

 

。。。。。

 

そしてこういった関心、つまりいわゆる「社会のレール」から外れてしまったり、それでなくても生きづらかったり、弱さとか脆弱性と社会の観点というとこで他にこれまで読んだのでいうと、上述の「男が痴漢になる理由」も含めて、下記のあたりも、(後から振り返るとですが)通じているかも。

 

 

 

男が痴漢になる理由

男が痴漢になる理由

Amazon

 

 

 

 

 

 

これらを見ると、「男の人の生きづらさ」みたいなテーマにも関心が強いことが(我ながら)うかがえます。

 

ジェンダー不平等な社会で生きるということで直面する理不尽さは、あたりまえだけど

「男が得、女が損」

ということでは全然なくて、男性の中でも「上位数%」というか、既得権益を持っていていわゆる昔ながら「男らしい」の基準に当てはまっていて既に成功している人たちが一番得をする社会になっていて、男性の中でもそこから外れた人たちはやっぱり大変なのだよな、という。

 

だからジェンダー平等の為に、多くの男性と一緒に共闘できたらいいのだけれど、そうはならないのがこの世の悲しみなのだよな。

弱い人がさらに自分より弱い人を探すというのがよく見られる。

 

(そういうことを考えるといつも思い出すやつ)

出典:峰なゆか「AV女優ちゃん 1巻」扶桑社 2020年

 

 

。。。。。

 

ちょっと話はずれたけれど、その関連で多分、

清田隆之「自慢話でも武勇伝でもない『一般男性』の話から見えた生きづらさと男らしさのこと」

も読んでいて、これは逆に一見順調そうな「一般男性」たちの例を生々しく読めてジェンダー視点の分析もおもしろかった。

 

 

仕事でバリバリ働いていてコミュ力高くて格闘技もしてていかにもモテそうな男性が、裏ではSNSで暴言吐いたりしてる話とか…

 

 

 

そいういう風に見ていくと、2022年は女性著者によるジェンダー関連の本、というのは意外にあんまり読まなかったのかと思いつつ、こちらはとても勉強になりました。

 

 

ちょっと極端だけど、ああ、そっちからも見なくちゃな、という議論。

シェリル・サンドバーグのLean in嫌いすぎで笑っちゃいました。

 

(サンドバーグに代表されるような)リベラル・フェミニズムが「特権を持つごく少数の女性たちが企業と軍隊の出世階段を上っていけるようになるという、そのことばかりに尽力した」こと、そして「それがほんとうに求めているのは、平等ではなく能力主義(メリトクラシー)なのだ」。

リベラル・フェミニズムは「特権的な人々が同じ階級の男性たちと同等の地位や給料を確実に得られるようにしようとする。もちろんその恩恵を受けられるのは、すでに社会的、文化的、経済的に相当なアドバンテージを有する者たちである。その他の者はみな、地下室から出られないままなのだ」。

経営者層の女性たち(リベラル・フェミニズムを進める層)は「抑圧をアウトソースする。」「発給の移民女性にケアの提供と家事を外注し、彼女たちに寄りかかれるように自ら膳立てすることによって。」

「端的に言って、リベラル・フェミニズムはフェミニズムの名をおとしめたのだ。」

 

 

あともう一冊関連して、上野千鶴子・鈴木涼美「限界から始まるー往復書簡」は、両著者の本と発信をいろいろ読んできたから、二人とも似ているところと根本的に相容れない部分がある気がして、どんななのかすごく気になっていた本、やっぱりとてもおもしろかったです。

 

 

 

「ブスの自信の持ち方」については別記事で書きました。

yaskolnikov.hatenablog.com

 

田房永子 「『男の子の育て方』を真剣に考えたら夫とのセックスが週3回になりました」については、こちらの記事↓↓に別途書きました。

yaskolnikov.hatenablog.com

 

 

 

そして小説はあまり読まなかったけど、2022年に読んだ下記の2冊はどちらも10冊選に入るおもしろさで良い読書でした。

 

正欲

正欲

Amazon

久々の小説で、外から単純に理解できることだけじゃなくて人にはいろいろあるのだということと、その隠れている部分に暴力的に踏み込むのは本当にやめなくてはと改めて思わされる読書になりました。

同時に、おもしろかったけれど、でも結局人や生物を対象にしてない(誰か、何かに迷惑をかけずに満たすことが可能で犯罪でもない)ことについての「異常」さは、苦難のごく一部しか映さないから難しいな、という感想も。

あまり細かく書くとネタバレになるから書かないけれど、人の苦悩を書いていても、もっと自分の「異常さ」が受入れらるものでないことに苦悩してる人たちにとっては、より孤独を感じるものなのかもな、という。

とにもかくにも、そうしたことを含め頭の体操になった点でも読んでよかったです。

 

 

お友達が勧めていたので読んだ本。

「ああしておけばよかった」というのが多い自分について見直せたから、忘れた頃にまたもう一度読みたい。

 

。。。。。

 

2023年も、良い読書ができますように。

 

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

【読書】山崎ナオコーラ「ブスの自信の持ち方」

 

タイトルとか表紙がなんとなく軽快な雰囲気だけれど、すごく深い思索と考察がなされている、哲学書っぽい本。

著者も書いてるように、自信の持ち方の指南本ではなく、ルッキズムとかジェンダー、障害、多様性について深く考えさせられる本でした。

 

一つ一つ真摯に深掘りされてる様子が、他のそういうテーマの本ではあまり読んだことがない感じの部分が多く、読んでよかった。

 

 

 

 

 

ブスと美人、男性と女性、バイナリーとノンバイナリー、障害者と健常者、その他国籍や宗教含めてカテゴリー化することの違和感や、そこをはっきりさせるさせないことの許容度、そしてある分野でははっきりさせて扱われ方も区別されたいけど、ある分野では分けたくない、みたいなこと、自分の中でもいろいろだな、と気づかされた。

 

山崎ナオコーラさんは、自身をノンバイナリージェンダーと自覚しているし、性別にこだわりたくないし、女性と男性はできるだけ分けないでほしい。

 

でも見た目については、自分は「ブス」だけど文章で評価されたいし、見た目に言及されたくないし、見た目で注目されたくないし(死後に焼いた骨すら見られたくない)、本の出版においても美人の作家さんの売り出し方とは違うし、ブスと美人は分けてほしい。

 

 

自分はどうだろう?とこの機会に考えてみる。

私は性別や性的指向については、自分は女性であり異性愛者であるという自覚がある程度はっきりしている方だけれど、そこがよりゆるやかな自覚の人もいるし、社会全体としてはそれをはっきり区別する傾向は薄まればいいと思っている。

 

見た目については、自分がいわゆる多くの人が思う「美人」にカテゴライズされないのはわかっているけれど、でも親密な人たちには見た目の良い部分は(必ずしも世間的な基準でなくても、個々人の魅力的な点として)、ほめてもらえると嬉しいし愛も感じる。

でも他の人を美人とか不美人でカテゴライズはしたくないと思ってる。

 

加えて、「女性らしさ」や「男性らしさ」については、それを強調することが偏見を助長することを考えると、あまり区別したくないしその言葉は避けてる。でもいわゆる「女性らしい」服装とか見た目は否定しない。逆にみんな好きな格好をすればいいから、男性がフェミニンな服着たり化粧するのももっと自由に広まればいいと思う。

また女性の多くは月経があり、妊娠出産に関わる身体的特徴があるから、そのニーズに合わせた対応や健康面の視点は必要。

 

それぞれトピックごとに、考え方の濃淡があるな、ということがすごくわかる。

 

それも場所や時間、年齢と共に変わるものですよね。みんながみんな、同じ考え方じゃないと理解することが大切で、でも自分の考えをまた見つめ直したくなるような、考えさせられる本でした。

 

 

f:id:yaskolnikov:20220306074806j:plain

 

自信の持ち方の内容ではないのだけど、11章目に「自信の持ち方」について考察されてる部分はすごく納得したし、今の自分に響いたし、また折に触れては読み直したい。

 

それにしても久々のブログ、何事もなかったかのように。

【読書】 ゲルノット・ワグナー & マーティン・ワイツマン「気候変動クライシス」

 

ゲルノット・ワグナー(ハーバード大学工学・応用科学リサーチ・アソシエイト、同大学環境科学・公共政策レクチャラー)と、マーティン・ワイツマン(ハーバード大学経済学教授)という二人の経済学者による気候変動に関する本。

 

気候変動クライシス
 

 

 
前半、ちょっと読みにくくて苦労。
翻訳もあるけど、きっと原文がもともとストレートじゃない言い回し(ウィットに富んだ?)で書かれているからという気がする。それが日本語になるとやや普通じゃない言い回しになって、すっと入ってこない。しかしこの自分が素人のトピックを英語で読んだらもっと理解できない。
 
いずれにせよ、前半は、地球の温度上昇がどのくらいの度数になるのか「とにかくわからない」ということに膨大なページ数が割かれてる。
 
予測、確率、可能性、推計、推定、前提、仮定…
 
気候変動はわからないことだらけ。
 
そして、その地球の温度上昇による被害のコストはどのくらいなのか。どのような式で金銭換算するのか。何をどう定量化するのか。
いろいろまだわかっていないから、いろいろはっきり決められない。
 
それだけ複雑で不確実性が高いことだというのがとてもよくわかったけれど、その不確実性を説明するのにこれだけページが必要なのがこれは大変だ。
 
あと、脚注が多い割に基本的な概念の説明がなく進むので、素人の私はいろいろググりながら読まないと理解できなくて時間がかかった。
 
(でもどんな分野でも言えることだけど、背景知識がある人にとっては、いちいち基本の説明ない方が読みやすいですよね。)
 
 

もっと知らなきゃいけないこと 

あとこの議論をもっと理解するには、ウィリアム・ノードハウス教授が作ったDICEモデル(Dynamic Integrated Climate-Economy:気候と経済の動学的統合モデル)のことももっと理解しないといけない。
 
DICEモデルは、「地球温暖化の統合評価モデル (Integrated Assessment Model、IAM)」の一つで、環境問題を経済学の視点からとらえ理解するのに貢献したモデル。
ノードハウス教授はこれを中心とした業績が讃えられ、2018年のノーベル経済学賞を受賞したけれど、同時にこのモデルの前提もそもそもいろいろ不確定だというところがすごい。ノーベル賞取るようなことでも、きれいに解明はやっぱりされていなくて、そのモデルを作ったことがとにかくすごいから賞になる、というくらいいろいろわかってない。
 
 
でもとにかく、よくわからないことはよくわからないこと、どういう点が特によくわからなくて議論になっているのか、ということについて大まかにだけれど流れをつかめたので、苦労しながら読んでよかった。
地球の未来に大きなインパクトを及ぼすことが間違いない気候変動について、どういう議論や考え方があるのか知ることがおもしろいのは間違いないし。
 
あと、後半にたくさんページを割いて批判されていた、ジオエンジニアリングのこと。 
例えば大気中に硫黄の微粒子をばらまいて、日光をはねかえすことで温暖化を緩和するという理論があるとか、他にも世界中の屋根を白く塗る、海に鉄分を撒いて(プランクトンの育成を促進して)CO2を吸収させるとか。
いろいろ温暖化への特効薬のようなことはやはり考えられていて、でもそれによるさらなる悪影響がとんでもない状況を及ぼす可能性も大いにある中、規制しないのは危険という話。(しかもお金持ちの人がパッと勝手にやってしまう危険性もあるものだし。)
 
 

喧々諤々な気候変動を巡る議論 

気候変動をめぐる議論は、地球これからどうなってしまうのかと心配になりつつも、一方で温暖化懐疑論も大いにあって(温暖化対策されると経営に大打撃があると考えるグループがそう言っているだけなのか、本当のところはわからないけれど)、目に見えないものについて真っ二つ(とその間の膨大ないろいろ)に意見がわかれていること、それに人々の仕事や、研究、利権や思惑も絡んでいることを考えると、たしかに難しい分野なんだな。
(最後の訳者あとがき(山形浩生さん)ですら本書の内容をわりと批判してる部分があって、めずらしいというか、よほど一枚岩になるのは難しいテーマなのだな、と。)
 
同時に、社会課題において「良い悪い」できっぱり分けられる分野があるだろうか、という。今の業界だって、
 
 「そもそも途上国への開発援助は必要か?」
 「開発援助が自力での発展を妨げているのでは?」
 
みたいな根本について考え込んでしまう時がけっこうある。しかもわりと頻繁に。
 
同時にふと思ったのは、今の分野は「何かを変える。」、つまり貧困とか、社会の不平等な慣習とかを変えるということに取り組んでいるのに対して、
環境課題については「今の地球から(温度を、生態系を等)変えない」という点で、根本の部分での違うのかも。
 
一方で長い地球の歴史の中で気候や生態系はこれまでも激変してきたことを思うと、変わるのは必然だという見方もあって、それはどうなのだろう。もはや哲学の世界?
 
とはいえ地球は既に0.8℃温暖化していて、自然災害の数も規模も増大して、それによって人々が命を落とし、築いてきたものを破壊され、災害対応費用もうなぎのぼりという、影響を受けているのは目の前の現実。止めないと、もっと多くの被害を被ることになる。
 
いろいろとわからないことを考えさせられると共に、まだまだ学ばなきゃいけないことが膨大にあることを再確認する読書だった。 
 
 
 
 

(著者の一人のワイツマン教授はこのノーベル賞の一年後くらいに自殺で亡くなられています。ご冥福をお祈りします。)

 
 

f:id:yaskolnikov:20200310180506j:plain

 

おわり

【読書】 安田陽「世界の再生可能エネルギーと電力システム [経済・政策編]」

 

大雨、洪水、サイクロン、干ばつ、砂漠化、そしてバッタ襲来等の自然災害の脅威を受けまくるアフリカで、気候変動課題のことを考えると、今後世界はどうなっていくのかと心配がむくむくと膨らんでいく。

 

気候変動はすべての社会課題に繋がっている。

 

そんなこんなでやみくもに心配するだけじゃなくて、もうちょっと学ぼう、特に再生可能エネルギーについてもうちょっとよく知りたい、と思って探して見つけた本。

 

世界の再生可能エネルギーと電力システム 経済・政策編 (NextPublishing)

世界の再生可能エネルギーと電力システム 経済・政策編 (NextPublishing)

  • 作者:安田 陽
  • 出版社/メーカー: インプレスR&D
  • 発売日: 2019/02/08
  • メディア: Kindle版
 

 シリーズでいろいろなバージョンがあるけれど、私は今一番関心がある「経済・政策編」を。

 

最初に著者の紹介があって、

元々、工学系のバリバリ「理系」だったところから、

「エンジニアが技術だけで何でも解決しようとしても限界がある」

「せっかくの技術を活かすも殺すも政策や社会システム次第」

(『世界の再生可能エネルギーと電力システム 経済・政策編 (NextPublishing)』(安田 陽 著)より)

と 思うようになって、経済・政策の方向へ舵を切ったとのこと。

こういうこと背景を聞くとぐっと信頼できる。

技術と、経済・政策を繋ぐという立場は、言うは易く行うは難しに違いなく、すごく重要な役割。

 

そして、本の内容がとてもわかりやすい。

大学院の経済の授業で習った概念とかも出てきて、いろいろ繋がったし、

現状のシステムが、

 ・外部コスト(※)

 ・便益

 ・エネルギーの安全保障

から考えて、経済的に「理想的な完成形」、最適解でないこと。

情報が不均衡であることから一般の人たちが経済合理的でない選択(逆選択:averse selection)をしてしまったりすること。

がよく理解できた。

 

※外部コスト、あとその内部化とは:

「外部コストは売り手Aさんと買い手Bさんの取引の「外」に出てしまった隠れたコストだということを述べました。本来必要な対策を行うべきところを行わなかった分だけ(不自然に)安くなり、売り手Aさんと買い手Bさんは共にハッピーですが、この商取引に全く関係ないCさん(近隣住民、将来の地球市民)が迷惑を被る可能性があります。したがって、本来とるべき必要な対策コストを元のAさんとBさんの商取引の価格に反映させ、市場メカニズムの「内部」に戻してあげることから、内部化と呼ばれています。」

(『世界の再生可能エネルギーと電力システム 経済・政策編 (NextPublishing)』(安田 陽 著)より)

 

 

一見、停電も少ないしうまくいっているように見える現在のシステムが、実は将来的に多大なコスト負担を強いるもので、実は「うまくいっていない」ということを認識しないと、改善もできない、ということ。

 

結構、今の政策やシステムのうまくいっていない点のことがたくさん書かれているので、業界内ではいろいろ賛否両論もあるのかもしれない。でももちろんこんな電力や気候変動を扱う未知の複雑な話題で完璧な状態が達成されていると考える方が不可能で、著者が言うように、現状の問題点にきちんと目を向けることから始めないと改善もできない。

 

あと、例えば FIT制度*(FIP**も)についてもやっと理解できたけれど、こういうちょっと複雑な制度や法律を、あらゆる要素を考えて作る人たちがいるんだな、ということ。そしてそれが一度でパッと最適な形で整備されるわけはないので、時代に沿った見直しや、そのための研究、改革、政策提言等が不可欠なんだな、と漠然と思いを馳せる。

 

FIT制度、FIP制度 

再エネで発電した電気を電力会社が一定の期間;

 *FIT (Feed-in Tariffs) 固定価格で買い取る。

 **FIP (Feed-in Premiums) 変動する市場価格に一定額のプレミアを上乗せした価格で買い取る。

 

 

とにかく本当にわかりやすかったので知識の土台としてこの本からはじめられてよかった。

あとは、もっといろいろ読まないと。

 

気候変動は、本当に今の仕事の分野(アフリカ、緊急人道支援、開発)にも密接に関わっていて、今後もそれは変わるどころか加速するのは間違いなさそう。

 

おわり 

【読書】 チョ・ナムジュ「82年生まれ、キム・ジヨン」

 

既に超有名でとても広く読まれているのでいまさらオススメというわけでもないけれど、私も読んだので。

 

82年生まれ、キム・ジヨン

82年生まれ、キム・ジヨン

 

 

 

一人の女性の人生が淡々と描かれていて、大声で何かを糾弾したり社会に訴えかける、という本ではないのに、とてつもないパワーで不条理を感じて、とてつもなく後味が悪い。

でも読んでよかった。

 

 

キム・ジヨン氏(という呼び方、韓国の友人同士がお互いをフルネームで〇〇氏~と呼ぶのがなんだか愛らしかったのを思い出して、好き。)の世代でもミソジニーにさらされ男尊女卑の社会でつらいのだけれど、救いはその母はキム・ジヨン氏やその姉に同じ思いをさせないようにできる限り努めているところ。

 

お父さんが「おまえはこのままおとなしくうちにいて、嫁にでも行け」 と言ったことに続くシーン

 

さっきあんなにひどいことを言われても何ともなかったのに、キム・ジヨン氏はこの一言で急に耐えられなくなってしまった。ごはんがまるで喉を通らない。スプーンを縦に握りしめてわなわなしながら呼吸を整えていると突然、がん、と固い石が割れるような音がした。母だった。母は顔を真っ赤にして、スプーンを食卓にたたきつけた。 「いったい今が何時代だと思って、そんな腐りきったこと言ってんの? ジヨンはおとなしく、するな! 元気出せ! 騒げ! 出歩け! わかった?」  母があまりにも興奮しているので、キム・ジヨン氏はとりあえず激しくうなずき、心の底からの同意を表すことで母をなだめた。

(「82年生まれ、キム・ジヨン」チョ・ナムジュ、 斎藤真理子 著 より)

 

これを読んだ時ちょっと泣いてしまった。

 

しかしそれでいて、キム・ジヨン氏の世代ですら男子である弟との扱いが違うということが起こってしまっていて、母は母の人生の中でこれ以上逆転することはきっとなくて、とまた心が滅入るのだけれど。

 

 。。。。。。。。。。。。。

 

韓国のフェミニズムの盛り上がりはすごい。

前に感想書いた「私たちにはことばが必要だ」もすごくよくて、日々のフェミニズムに関わる考え方に大いなる影響を受け、思考にしみこんでいる。

yaskolnikov.hatenablog.com


 

日本も同じように、さらに強く美しく対話が広がってほしい。

 

【読書】ジェーン・スー他 「私がオバさんになったよ」

 

いろいろおもしろい、ジェーン・スーさんの本をまた。

 

 

これは対談集で、7人の人とジェーン・スーさんが話している。

 

 

一番最初の光浦靖子さんのが、全然共感できず、一番いまいち。

やっぱりテレビかつ、お笑いの世界という特殊な世界の論理の中で生きそれが染みついている人という感じがして、私が思っている多様性や寛容さとは相容れないと思った。ジェーン・スーさんはすごくやわらかに「それはそれで」仲良く受け止めているけれど、先輩世代の影響力ある女性が言う内容としては、ジェンダーステレオタイプやルッキズムを助長する考えを引きずっていてちょっとモヤモヤ。

 

 

脳科学者の中野信子さんとの回が、やっぱりおもしろくてためになる。

ジェーンさんと中野さんだけの対談集の件は前に別の記事で書いた通りすごくおもしろかったし、今回もいろいろと脳が刺激された。

 

はっとしたところ。

日本が「みんな同じ」じゃないと排除されがちなことについて。

(ジェーン)ここに混ざったら危険というセンサーが働く人と、このなかに入ってないと危険というセンサーが働く人の違い。

(中野)それを示唆する実験はなくはないよ。間違ったルールを教えられて、途中でその間違いに気づいた時、それでも教えられたルールに従う人と、自分のルールに従う人、二手に分かれる。それぞれの遺伝子を見ると、ドーパミンの分解酵素のタイプが違ってる。自分で意思決定することを気持ちよく思うか思わないか。意思決定を気持ちよく思わない人は自分で服を決めるのも得意じゃないし、みんなが買うから買うとか、みんなが観てる映画だから観るとか。そうしたタイプが日本には七割以上いるんだよね。

(『私がオバさんになったよ (幻冬舎単行本)』(ジェーン・スー, 光浦靖子, 山内マリコ, 中野信子, 田中俊之, 海野つなみ, 宇多丸, 酒井順子, 能町みね子 著)より)

 

日本人がそういう傾向強いのわかるし、だから第二次世界大戦の時みたいに全体主義になる時怖いし、今もそういう流れが確実にある。私もそういう血を引いている感じはする。自分の確固たる判断軸を持ちたい。

 

 

あと、田中俊之さんという、男性学研究者との回もおもしろかった。

 日本では90年代後半から2010年代前半まで十四年連続毎年三万人が自殺しました。内訳を見ると、女性が一万人に乗った年は一度もない。常に男性が二万人以上亡くなっています。 (中略)同じ日本という社会を生きていて、性別が違うだけで自殺者数がこれほど違うのは、不思議なことです。

(中略)

そもそも、「おじさんは疲れている」とみんなから思われています。おじさんに対する固定観念です。だから、働き過ぎて多少の無理をしていても、本人も周りも「普通」だと受け止めてしまいます。

(『私がオバさんになったよ (幻冬舎単行本)』(ジェーン・スー, 光浦靖子, 山内マリコ, 中野信子, 田中俊之, 海野つなみ, 宇多丸, 酒井順子, 能町みね子 著)より)

 

かなしい。

男性の自殺者が多いのは、男性は逃げ場がない、弱音を吐きにくい、みたいな社会規範が強いからだと思う。「男の子は強くなきゃ」みたいに育てられる呪いも。

死ぬくらいなら、仕事しなくても、投げ出しても、お金稼がなくてもいいんだ、ということがどうしても浸透しなくて、追いつめてしまうのは本当に悲しい。

 

 

そして、やっぱり能町みね子さんの回もとってもおもしろかった。

前半、二人の共通点があんまりないという話をしているのだけれど、最終的に二人とも「結婚していない、主夫のような男の人と暮らしている」というものすごくスペシフィックな共通点が。

サラリーマン夫婦の夫側を自分がやるようになるとは思ってなかった。

(『私がオバさんになったよ (幻冬舎単行本)』(ジェーン・スー, 光浦靖子, 山内マリコ, 中野信子, 田中俊之, 海野つなみ, 宇多丸, 酒井順子, 能町みね子 著)より)

既存の家族の在り方にとらわれない生き方の話を読めてよかった。

 

 

 

ジェーン・スーさんの本は、最近「貴様いつまで女子でいるつもりだ問題」も読んだ。通常の会話の中にフェミニズムが何気なく入り込んでいく自然さが好き。

フェミニズムを前面に押し出しているわけではないのだけれど、多様性や寛容さを幅広くカバーすることで、それが根底にあるフェミニズムを自然と体現しているというか。

貴様いつまで女子でいるつもりだ問題 (幻冬舎文庫)

貴様いつまで女子でいるつもりだ問題 (幻冬舎文庫)

  • 作者:ジェーン・スー
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2016/04/12
  • メディア: Kindle版
 

 それにしてもタイトルがすごい。 

 

 

 

 

f:id:yaskolnikov:20200218010626j:plain

 

【読書】 植本一子 「かなわない」「家族最後の日」「降伏の記録」

 

ある時「かなわない」のレビューを何かで読んで、ふむ、とポチって読み始めたら、三部作一気に読んでしまった、どっぷりつかってしまった読書体験。

 

かなわない

かなわない

  • 作者:植本一子
  • 出版社/メーカー: タバブックス
  • 発売日: 2016/02/05
  • メディア: 単行本
 

 

 

植本一子さんという同年代の写真家の、日々の気持ち、行動、揺れ動きをすごく間近で見させてもらっているような、友達でもないのに。という読書。すごく個人的なことがかかれているけれど、ひとりよがりでも独善的でもない確固たる文章力で、読むのが止められない。

普通の精神状態(ってなんだ)でなんかいられないよね、そしてそういう時期があってもいいよね、と思える。 

 

家族最後の日

家族最後の日

  • 作者:植本 一子
  • 出版社/メーカー: 太田出版
  • 発売日: 2017/02/01
  • メディア: 単行本
 

 

 

二つ目の「家族最後の日」で、母と絶縁(一生なのかはわからないけれど)したことが書かれている。

 

それについて三つ目の「降伏の記録」で、ある時植本さんが人と話している時、それまでの母との経緯とかがあまり書いてないからどうして絶縁までしなきゃいけなかったのかについていろいろ聞かれて、消耗したというエピソードがあった。

その聞いてきた人にその日の夜に「しばらく会わない」ってメールした植本さんはやっぱり自分が傷つく気持ちにも真面目で正直な人だと思ったのだけど、夫のECDさんにそれを話した時に言われた、

「わからないことをわからないままにできない人がいるんだよね。わからないままにしておくっていう態度が、その人を尊重するってことになるのに」

という言葉がとても響いた。

 

私も白黒はっきり知りたくて、いろんな人にいろんなことを根掘り葉掘り聞いちゃうことがあったから申し訳なかったな、などと反省した。人に説明したいことばかりじゃないし、言葉にしたらその瞬間妙に言い訳がましくなったりするし、いろんなことに振れ幅があって、それでいいんだ、って思える人間関係が良い。

結局は人間関係のこと、ありとあらゆる選択、さびしさ、かなしみ、よろこび、そういうものはすべて極めて個人的なことでうまく説明できなくて当たり前。(同時に、それでも人は人にわかってもらいたいことがたくさんあるから、書くし話すし、伝わらないと寂しく感じたりするのだけれど。)

 

 

降伏の記録

降伏の記録

  • 作者:植本一子
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2017/10/26
  • メディア: 単行本
 

 

 

一作目と三作目にたくさん出てくる、植本さんの気持ちがどうにもならない時に相談する相手の「先生」の言葉で一つ、どうにも心に残ったものを抜粋。

「子どもの世話が辛いのはちゃんと理由があるんですよ。嫉妬なんです。あなたが子どもの頃一人ぼっちでさみしい思いをしていたのに、自分の子どもはちゃんとかまってもらえている。しかもあなたは過去の自分のことをほとんど思い出すこともなく、その深すぎる孤独に気がついてくれませんでした。中の子にしてみたらこんな理不尽で残酷なことはありませんよね。だからあなたは子どもを可愛がってあげたいのに可愛がるほど辛くなるんです。お前はいいよな~!って。そんな複雑な心もちょっと自覚してみてください。」

(『かなわない』(植本一子 著)より)

 

これは一つ、そういうこともあるだろうなあと納得したのだけれど、同時に、この「先生」はよく話を聞いて良いアドバイスをしてくれるものの、専門の心理カウンセラーでもないわりに言い切りが多いというか。それでいて植本さんの求める答えを(厳しいのも含めて)与えるのが得意で、もっともらしくて、そういう「先生」の言うことに飲み込まれ過ぎるのは危険じゃないかと勝手に心配してしまうのもこの本の読書体験と切って切り離せないことかも。

 

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 

  

筆者の文章は静かで、内省的で、暗い悲しい気持ちの描写も多いのだけれど、同時にとても外交的。友達たくさんいるし、常に何かしていて、フットワーク軽くて。疲れてたり体調悪いなら家で休んでもよいのに、毎日忙しい中用事を入れて、人に会い、何かしている。誰かと接することでエネルギーをどんどん貯められるタイプの人なのだろうな。それでも孤独な気持ちはあって。

 

内省的であることと、内向的であることは一致せず、外向的であることと、孤独でないということもまた一致しないのだな、と当たり前のようなことなのだけれど気づけた。

 

いろいろ出てくる献立の描写も健康的でおいしそう。生きるというのは食べ物を、(子どもがいるとさらに際立って、)考えては、作っては、食べる、のくりかえしなんだな。

三部作をじっくり読んでいろいろ考える時間良いものだった。