路上で受けるハラスメント
カメルーンで道を一人で歩いていると、そこら辺にいる男性たちにすごく声をかけられます。
シノワ(=中国人)とか、ニーハオとか、チェンチャンチョン(?)とか、
もしくは、(フランス語で)笑って!とか、俺の恋人!とか。
無視して歩くと、腕とか肩に触れてくる人もいて本当にびっくり(怒)します。
「ただ気にしなきゃいいじゃないか」って思う人もいるかもしれないけれど、嫌な気持ちが塵も積もれば山となっていくし、このせいで外に出るのには毎回結構な決意が必要になります。
「外にごはん食べに行こうかな…でも、外出て道を歩いたら、また超声かけられるからな」という。
(というか、歩いている時だけでなく、タクシーに乗っていても路上の人々やバイクに乗ってる人たちからガンガン言われるのですが。)
この件、自分でもなんでこんなにひっかかるのかな、とも思う。一朝一夕で変わる様なことではないし、気にしないようにできたらそれが一番楽です。
「カメルーンはそういう国なんだから、しょうがないよ。途上国あるあるだよ。たくましくなりなよ。」
と言われればそれまで。
しかし・・・なんかこの件は「気にしない」で終われない。
「そういう国だから」で片づけたくない。
ここには、カメルーンだけでなく国境を超えて、大きく分けて二つの、不快感・問題意識が絡んでいるのだと思います。
一つ目の不快感・問題意識
それは、女性であるとかの理由で「弱い」立場として下に見て冷やかしで声をかけられるということに関係しています。
(女性でなくても、体格とか性的マイノリティとかさらにはアジア人ということで「弱いとみなされて」というのもこのケースに当てはまります)
これは欧米を中心に他国でもよく問題視されていて、catcall とか street harassment (ストハラ)という言葉でググるとどんどん出てきます。
最近も、オランダのアムステルダムに住むジャンスマさんという女性が、一カ月間に自分にcatcall(セクハラやじ)をしてきた男性と自撮りしてインスタにアップするというプロジェクト(@dearcatcallers)を行ったのが話題になりました。
また、2014年に、この件について多くの人に問題提起したのは、ニューヨークを10時間歩いていかに多くのストハラを受けるか撮った動画です。
こういう記事のコメント欄を見たりすると、
これまで一度もそういう経験がなく、そういうことで不安を感じる必要がない人たちの中には、本気で、
例えば You are beautiful. とか Hey sexy. とか I love you. とかなら無害だし、
むしろ「いいこと」言われてるんだから別にいいじゃないか、
褒められて喜んだら、
と言う人がいることがわかります。
また、「道でナンパしちゃいけないのか!昔はよかったのに。生きづらい世の中になったな!」というようなことを言う人もいるようですが、、、
とにかく一つ思うこと。それは、
そういうハラスメントする人たちは、別にその対象の女性を必ずしも美しいとかセクシーとか思っているわけではなく、いわんや実際その声かけた女性が笑顔で振り向いてデートすることにつながる、なんてことは思ってないはずだということです。
ただただ、自分には安全な範囲で、
(だって相手は一人で歩いている女性、もしくは小さい子供と二人きり、もしくはなんか「弱そう」)
自分の快楽の為に言いたいことを言う、ただでセクハラする、ということをしているだけです。
(だから、「ナンパ」の正確な定義はわからないけれど、個人的にはナンパとストハラは違うと思います)
一人の人間として毎日悩みながら働いたり学んだり遊んだりして生きているのに、路上に出た途端、そういうのの対象にされなきゃいけない、という理不尽さに気持ちが暗くなります。
ちなみにカメルーンにて、私が声をかけられるのは決まって一人の時で、男性の同僚と一緒の時は絶対に言われません。さらには、同僚と一緒だけどちょっと距離が空いてる時とか、私だけに聞こえる声で言ってくる。だから、同僚は私がこういう言葉を言われ続けてるの、実感としてはわかりにくいと思います。
さらに、前述のアムステルダムのジャンスマさんが自撮りを頼んだ時に、驚いたことにcatcall してきた人たちは誰も断らず、大抵笑顔で一緒に写ったということ。つまり、悪いことしているって気持ちがないのだと思います。
(ちなみにオランダでは2018年から、ストハラ行為に対して190ユーロの罰金が課せられるようになるとのこと。)
彼らの内、何人が妻や彼女がいて、娘や姉妹を持っているんだろうか…と思わずにいられません。
こうしたストハラは、ただ単に煩わしいというだけでなく、精神的ダメージや行動の阻害につながる、ということが以下のコラムにわかりやすく書かれています。
ストハラを避けるために通勤ルートを変えたり、夜の移動は公共機関を避けてタクシーに乗ることを選ばざるを得なくなるといった実際の経済的損害がある他、
ストハラによって精神が不安定になったり、特に性暴力被害者がストハラに遭うことでトラウマが蘇ったりという影響も見られるとの内容です。
また、ストハラが最初はただ声をかけるだけだったのが、だんだんストーカーや性暴力へとエスカレートするケースも問題となっています。
さらにレイプの問題でもよくあるように、「露出が多い服装だったから」とか「夜なのに一人で歩いていたから」といった、被害者が逆に非難される(セカンドレイプならぬ、セカンドストハラ?)という現象がストハラでも起きていて、それがさらに深い精神的ダメージを与えることになります。
二つ目の不快感・問題意識
そして二つ目は、人の国籍を外見で勝手に判断して、それによって人をカテゴライズすることに関連します。
この関連でまず最初に触れておきたいのは、ネット上では、こういう時に「中国人って言われ嫌がるなんて差別だ!(日本人が特別だと思っているのか、的な)」とか全く見当違いなことを言う人が結構いて、そんな意見に反論するのも馬鹿らしいと思うほど見当違いなのですが、説明不足は思考停止にも繋がるので、ここではそんな誤解を1ミリも与えないように最初からそれは違うということを言っておきます。
問題は、見た目で決めつけてその分類、さらにはステレオタイプを相手に投げつけることであり、だから「アジア人!」って言われるんだったらOK、とか「日本人!」って言われたら「正解!」って、ことではないです。
なんで?アジア人の顔なのは事実じゃない?
と思われるかもしれないけれど、例えばアメリカで、例えばアジア人の顔つきだけれど、アメリカで生まれてアメリカで育ったアメリカ人達が、いろいろとアイデンティティのトピックについて発信しているのを見ていて、他人に見た目でカテゴライズされることのフラストレーションを感じている世の中では、「アジア人として見えるんだからアジア人、っていきなり知らない人に言われてOK!」なんて言えないです。
たとえばこの、あるAsian Americanの、ニーハオと言われることへのフラストレーションの記事。
アメリカで生まれ育ったアメリカ人なのに、いきなり「ニーハオ」と言われ、言った人はその後、‟stands there looking like he expects an award.” と書いてあり、そのなんとも言えない気持ちが容易に想像できます。
筆者の "Saying "ni hao" to anyone who looks vaguely East Asian is a great way to show off your ignorance." という言葉が印象的。
また、世の中もちろん、中国人以外にも私たちに顔の作りが似ている人たちがいることは考えるべきで、もちろんそれは韓国、日本にだけは留まりません。
私が去年三か月過ごしたカザフスタンとか、日本人と見分けがつかない顔つきの人たちだらけでした。(それにアジアと言っても日本からネパールからインドまで様々だし)
カメルーンの人たちがそれを知らないことについて非難はもちろんできないけれども、それが「アジア人の顔を見る=中国人と決めつけてニーハオと言っていい」とはならないはずです。
これは本当に、大人がやるから子どもやっていいと思う、の連鎖なので、悪気はない場合が多く難しいのは本当にわかっているのですが…
一方で、路上で「ニーハオ」と言う人が、本当に私に挨拶する気持ちで言っているのは稀で、基本的には気を引くためのかけ声です。
路上じゃなくて普通に自己紹介して挨拶する、というシチュエーションで相手が私の顔を見て「ニーハオ」と言う場合は、(ため息が出ないと言うとウソになりますが、)悪気は完全にないとわかるので「ボンジュール」と返すか、「日本語ではコンニチハですよ~」と説明しています。
そういえば、道で「チェンチャンチョン」みたいに、「中国語っぽい」という言葉もかけられますが、これもつい最近もニューヨークで、ある店員がアジア人の客の名前をレシートに「チン・チョン」と記載したのが大炎上して、その店員は解雇になったという話がありました。2017年のニューヨークででも、未だにこういうことが起こっています。
一方で、日本でもこれに通ずるものがあると思うのです。
例えば、日本在住が長い人でも、
「見た目が外国人」という理由でいつまでも「ガイジン」扱いをされる
「見た目が外国人」だと即座に「英語話者」であると思われる
といったフラストレーションの話はよく聞きます。
最近こんなツイートを見ました。
今朝、先生を含む小学生の集団に突然英語で話しかけられ驚く
— アイザック (@Isaacsaso) 2017年10月5日
「外国人に話しかけよう教育」と気がつき流暢に日本語で「ごめん。私日本人(嘘ではない)」と返したら驚いて去っていった
理念は分かるが通勤中にナンパまがいの事されたら嫌な外国人も多い点まで「国際的感覚」で先生に考えて欲しかった
旅行業の友人からも修学旅行で「外国人に話しかける」という課題が出てこういうことする学校が沢山あるという話を聞いたし、このツイートに連なっている回答からも読み取れるように、かなりよくある話のようです。
言わずもがな、「外国人に見える人」の中にも日本人はいるし、「外国人に見える人」の中でも英語話者じゃない人はたくさんいます。
日本に住んでる外国人の方がこういった突然の有無を言わさぬ「国際交流」の相手にされることにうんざりしていることは容易に想像できると共に、日本にはるばる来た観光客の方々が、これで嫌な印象を持つことがあるのでは、と心配になります。(もちろん楽しんでくれる人も中にはいると思いますが。)
私がここにいて、「シノワ(=中国人)」という言葉に耳の反応が敏感になっていることから考えると、日本に住む外国人や観光で来ている皆さんが「ガイジン」という言葉に敏感になっているのは容易に想像できます。
だから、例えば地方から来ているかわいいおばあちゃんが渋谷あたりを歩いて、「ガイジンさんがたくさんいるねえ」ってニコニコしながら言ったとしても、すれ違う外国人に見える人(もしかしたら在日20年かもしれない、むしろ日本国籍かもしれない)は、「何か自分のこと言われてる」、と思ったりすると思います。
悪気はないのは重々承知です。
私だってやっちゃったことあるかもしれないし、本当に悪気ないって知っているのです。
それにこっちで「ニーハオ」って言ってくる子どもたち、普通にかわいいのです。
でも、悪気があろうがなかろうが、人に不快感を与えてはいけない。だから、気づいてほしいとただただ願うし、私もこれからも気を付けていくし、カメルーンでも機会があればこういう問題意識を発信していきたいな、と思っています。
「見た目がガイジン=日本人じゃない、日本語話せない」というステレオタイプの動画
おわりに
すごく長文になりました…
この長文を読んで、
「そんなに深く考えるなよ…もっとリラックスしろよ…」と思われるのもわかります。
実際の生活上では、上記の様な人権・ダイバーシティに及ぶグルグルとした思考と、実際の生活で出くわす頻度の高さの中で折り合いをつけて、なるべく鈍感力を発揮し、目を合わさず、時には「ボンジュール」とか言いながらズンズン歩き去って忘れていきます。
あと、カメルーンに来る直前まで、アメリカで、かつ多様性の街ニューヨークで、その中でも超リベラルな大学院に二年間いたせいで私の見方もやや極端なのかな、という自覚もあります。
私がいた大学院の環境は、例えば新しい授業でで南アジア系の顔の友達と知り合ったとして、「インド出身?」とかいきなり聞くのはかなり良くない…
かく言う私も最初の方、結構いろんな友達に「どこ出身?」と聞いてしまって(本当にいろんな国出身の人がいあるから)、でもみんながみんな私みたいに簡単な(?)出自じゃないことがわかってきたし、人によっては会話の流れで嫌な気持ちになる場合があることも知り、その後反省したり方向転換したりしました。
(その中でよく聞いた、アジア系の見た目の人が "Where are you from?" って聞かれて、例えばCalifornia で生まれたからそう答えたのに、"(でも本当は中国系とか韓国系とか、そういう意味で)Where are you really from?" って聞かれるのがすごく典型的で苛立たしい、という話もあります。この動画が秀逸。)
いずれにせよ、最初に聞かなきゃいけないほど重要なことじゃないな、と思って私は最初の会話でいきなり出身を聞くのはやめるようになりました。
一方、そういう「ポリコレ」的なこと、気にしすぎるのも息苦しい、という意見もよく聞きますよね…
しかも、それをカメルーンで求めていいのか。
たぶん、「中国人」とか「ニーハオ」って言われるのは気にならないよ、という人たちは、カメルーンとかそれに似た文化の国の人たちへの愛情と優しさを持って、
「(教育の機会だって、外国人と触れる機会だって、我々よりは限られている)彼らにそこまで求められない」
とか
「興味を持ってフレンドリーに接しているだけだから、悪気はない。外国人に興味を持つ人に話す機会を与えることも重要。」
という気持ちがあるんだろうな、と想像します。
本当にそれはよくわかるし、優しい気持ちだし、私もそんな100%ひねくれているわけではないので上記のような気持ちも持っています。
だから、私も日常生活でどんどん声をかけてくる人にいちいち怒っているわけではないし、「中国人」とか「ニーハオ」って言われても気にしないよ、って人に、「気にしなよ!」とか言ったりはしないのです。
その上で、でも、私は「カメルーンだからしょうがない」とは言いたくないです。
話し上手で、おしゃれで、プライドが高いカメルーン人。
これからもっともっと市場も開かれて経済発展していって、もっとたくさん外国人も入ってきて、世界でも影響力を強く発揮していくんだって期待しています。だからこのままでOK、だとは思わないのです。
「カメルーンだからしょうがないよ」では片づけないで、内側から変わっていってほしいから、私も機会があれば周りの人たちとこういう話をするようにしたいです。
まあ、割と前からこのことが話されている国でだって、まだなかなか人々の態度が変わらなくて大変だ、というのがこの話のポイントだったのですが。
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基本的に元気に楽しいカメルーン生活、あまりネガティブな部分に注目しないようにしたいとは思っているのですが、今回はカメルーンから海を越えて、日々モヤモヤと思っている内容になりました。
次はほのぼの記事(?)に戻ります。