【読書】治部れんげ、田中東子、浜田敬子ほか「いいね!ボタンを押す前に――ジェンダーから見るネット空間とメディア」

 

ジェンダー関連でいろいろなことがあちこちで燃えているネット空間とメディアを見ていて、なんだかなあと思う部分と、でもそのおかげで議論が進んで、変な差別発言する人はしっかり指摘されて、昔よりよくなっていることもあるなと思いながら、付き合い方を考えていたところで出版された新刊。

 

日本のジェンダー議論を引っ張っている著者たちによる「ジェンダーから見るネット空間とメディア」とのことで、こういう話は少しでも新しいうちに、と思ってすぐ入手しました。

 

 

 

まず小島慶子さんの序論の、「私たちはデジタル原始人」で、今デジタルにおいては人類史の旧石器時代を生きている(石斧を使い始めた人たちのように、デジタルを使い始めたばかりで欲望と粗暴さが渦巻く原始ネット社会を生きる)という話がおもしろかった。

 

天才が発明した石斧、それを普通の人たちが使い始めたから人類は “進化した”。

でも、人々がその最先端のハイテクアイテムで殴っていたのは、獣だけではなかったはずだ。よかったー、石斧で殴られる世界をサバイブしなくてもいい現代人で…

そんなふうに、いつか私たちは子孫に哀れまれることだろう。

 

 

その後しばらく皇室の話が続いて、個人的には皇室の話って私はあまり関心がないので「なんでみんなそんなに小室さん小室さんって…」という感じだったけれど、昔から一定の層の関心がある話題であって、ここにもメディアの姿勢や変わりゆく社会の中で変化が求められていることが、イギリスの王室の例も触れられながら説明されていて知見が深まった。

 

 

田中東子さんの「なぜSNSでは冷静に対話できないのか」の章では、

その答えをいろいろと分析していて、たとえば

一般のひとたちによって書かれたSNSの文字情報は第三者の視線による「編集」という作業を経ていない文章であり「不明瞭さや誤読を招きかねない表現がそのまま掲示されてしまう危険性に満ちている。」こと。

 

また、

浮遊する「文字情報」からは発話者の属性や発話者間の関係性が消し去られているため、あらゆる発言は、その内容がどのようなものであれ、均等で対等なものであるあのように受け止められる。そのうえで、発言内容の「強度/強さ」を図るための指標は、「いいね」や「リツイート」や「コメント数」といった数の力に委ねられることになる

という点も、問題の根底にあるものをとても明確に指摘していると思った。

 

議論の前提となる定義とかも共有できていないままに、不特定多数の顔の見えない人と議論するということ、本当にリスクがたくさんあるプラットフォームだと理解できる。

(なので個人的には、Twitter上でちゃんとした議論するのはまず無理とすでに諦めてしまっているけれど…)

 

社会で起きるいろいろな物事や思想について対話したり議論したりするのって本来楽しいことで、そのネタがたくさんあるTwitterっておもしろいツールなはずなのに、毎日すごい不毛な議論がたくさん起きていたりそれでいろいろな人を傷つけているのは残念に思う。

別に不毛な議論があっても、それが対面で知っている人との間だったりしたらその関係性の深化という意味もあるだろうけれど、ただ単にこれまでも知らないしこれからも知り合うことはない人と、限られた文字数で、前提を共有もせずに議論するっていうのはあまり意味がないよな…

 

でもそういうところで議論しなくてはいられない人はいるし、議論というところまでいかなくても頭の体操は重要だし、それこそいろいろな意見が多方面から述べられているのを見て学ぶって機会もたくさんある。そういう使い方をしていきたいけれど、極端な対立が煽られたり、誰かが不条理な誹謗中傷に晒されたりするのは本当に胸が痛いことです。

 

 

そしてそれに続く、また小島慶子さんと、山口真一さんの対談ネット世論は世論ではない」は、学校で必修にしてほしい内容だし、大人も1年に1回は読んで自分を戒めるとよいと思った。

「おおかたの意見」を知るためにネットを見ても、実は「極端な人」しか見えないということ、私たちは肝に銘じておかないといけない。

 

例えば憲法改正というテーマについて分析すると顕著に表れます。「改正について大いに賛成である」から「改正には絶対に反対である」までの七段階で社会の意見分布を調査すると、山型の分布で中庸的な意見の人が最も多い。ところが、これをSNSの投稿回数で分析すると、最も多く発信されているのが「大いに賛成である」人の意見です。そして次に多く発信されているのが、「絶対に反対である」人の意見。この人たちはそれぞれ社会全体の7%を占めているのにすぎないのですが、SNS上の発信量では合計46%

 

ジェンダーとかフェミニズムの話でも、よく両極端なことを挙げて「何やっても女は文句言う」みたいな投稿をする人がいるけれど、世の中そんなに極端じゃないし、そういう分断を煽ることの罪は大きいと思う。それを目にした関係ない人が怒ったり。

ただそういうことを材料に議論することは楽しいし意義深いけれど、逆にヘイトやミソジニーを促進するネガティブな影響の方が大きいというのも大いにあるよなあ。

 

あともう一点「そうだよなああああ」と思ったのは、ある誹謗中傷の裁判で訴えられた被告が、Twitter上に一人で200以上のアカウントを作って攻撃していたことがわかったとか。

アカウント200は珍しくても、一人の人が100回くらい同じような誹謗中傷をすることは全然あるとのこと。

 

なんか、映画「新聞記者」にもあったけれど、誰かにお金を払われて、世論を操作するようなことがさも大勢の意見のように投稿しまくる、というようなことも実際に社会に起きているのだろうし。ため息が出る。

 

同時に、その200個アカウント作った人とかのことを考えると、どうしてそんなに負のエネルギーが湧き出てしまうのか、孤独で幸福や愛が足りなくてほんとうに苦しい暗い生活を送っているからそうなんだろうな、そこをむしろどうにかする方法はないのか…

という気持ちになってくる。

 

でもとにかく私たちが忘れてはいけないのは、

「そういうように他者を攻撃している人が、社会全体からみればごく一部に過ぎないという事実」

「ネットの意見は決して世論ではない」

 

 

「なぜジェンダーでは間違いが起きやすいのか」の章で、

NHK山本恵子さんが「メディアに女性が数として増えるだけでなく、管理職となる必要性も味わってきた」と書かれていて、意思決定層が多様になることの必要性をものすごく表していて深く納得できる例だった。

ずっと男性デスクからダメ出しをくらって最後にはデスクが「わかりやすい」と思うステレオタイプ的な描き方やコメントになっていたことが、やっぱりそこ(=意思決定層)に女性が入ることでようやく変わったという例。

 

また、男性デスクでも家事や子育てを経験している人がなった時に、

「親が目を離したすきに」という表現について「親だって、ずっと子どもから目を離さないのは不可能だよね。責任を感じている親をさらに追い詰めるだけだ」と、これまで当たり前に使われてきた表現を削除していた。

 

なんともすばらしい多様性の実例。

 

 

 

日々目に触れるものが価値観をつくるから、SNS世界のモラルはもっと高まらなくてはいけないし、メディアの役割は今も昔も大きい。

だからいろいろ間違った方向に行くと、差別や偏見が助長されたり、人を殺してしまったりする。

もうこういう社会であることは止まらないから、その中でいかに自分がリテラシーを身に着けるか。そして制度としても、今まで想定されていなかった事態に対するルールや仕組みをしっかり作って対応していけるか。

それが原始時代を抜け出してより進歩した社会になるために重要なことだと改めて実感。

 

今の時代を生きる上で大事なことがたくさん書かれていた本でした。